ロラン・バルト『イメージの修辞学』考察
Roland Barthes, Rhétorique de l'image
▼はじめに
 筆者が「写真論」というものにはじめて出会ったのが,フランスの批評家ロラン・バルトの「イメージの修辞学」(蓮實 重彦・杉本 紀子訳『映像の修辞学』,ちくま学芸文庫,2005年)でした。
 バルトの写真論というと『明るい部屋』の方が有名かもしれませんが,筆者は記号論に立脚した「イメージの修辞学」の方が読みやすく,自身の写真観への影響も大きかったと感じています。
 『明るい部屋』は難解であるうえに途中で主張のどんでん返し(笑)もありますが,『イメージの修辞学』は主張が比較的一貫しており,批判的に解釈するうえでもとても興味深い内容です。
 まず文献の概要をご紹介したうえで,私感を記していきます。
文献の概要
《用語の確認》
 まず,『イメージの修辞学』でバルトが用いている用語について(筆者なりに)かみ砕いてみました。バルトの写真論が難しいのは,これら言語学用語が共通理解として必要なことでしょう。
・ディジタル:分節されているということ(これに対するのが「アナログ」)
・langue(ラング):ソシュールの用語。同一言語を用いる個々人の言語活動を支える,社会的制度・規則の体系としての言語
・parole(パロール):ソシュールの用語。社会制度としてのラングに依拠しながら,個々人が個々の場面で行使する言葉
・langage(ランガージュ):ラング+パロール。人間の言語の総体,言語活動
・dénotation(外示):明示のこと
・connotation(共示):暗示のこと
・paradigme(パラディグム):範列。言語連鎖のなかの一点において交換可能な諸要素の総体。たとえば,Le magasin est fermé.(店は閉まっている。)という文章のmagasin(店)に代わり得るrestaurant(レストラン),musée(美術館)などは範列をなしている
・syntagme(サンタグム):連辞。言語鎖内における2つ以上の要素の結合
・discours(ディスクール):一つのメッセージを形成する言語表現の総体
 「イメージの修辞学」でバルトがテーマとして掲げているのは「イメージというアナログ的表象に《コード》を考えることはできるのか?」ということです。
 イメージを「言語にくらべてきわめて未発達」とみなす人もいれば,「言語には表せない」豊かさがイメージにはあると考える人もいます。
 バルトは食料品の広告を用いて,イメージのもつメッセージをスペクトル分析しています。広告を用いたのは,イメージの意味作用が意図的で記号が最良の読みを目指して構成されているからだ,と述べています。彼によると広告からは3つのメッセージを見出すことができ,
1)言語的なメッセージ;広告写真に付記されたキャプション
2)共次的(《象徴的》)なイメージ;このイメージを読み解くためには「文化的な知」が必要(→イコン的な性質のメッセージ)
3)外示的(《字義的》)なイメージ;signifié(シニフィエ)はシーンの実際のオブジェであり,signifiant(シニフィアン)は同じオブジェ(「同語反復的」,コード化されていない)
に分けられるといいます。ただし,共示的イメージ(文化的メッセージ)と外示的イメージ(知覚的メッセージ)はふだん区別せずに汲み取っています。
 続いてそれぞれのメッセージについてバルトの説明をまとめていきましょう。
 言語的なメッセージはさまざまな形であらゆるイメージに備わっています(これをバルトは「私たちはまだ,かつてないほどにエクリチュールの文明なのだ」と表現しました)。言語的メッセージはイコン的メッセージに対して「投錨」と「中継」という2つの機能をもちます。テクストがイメージのもつシニフィエの自由を抑圧するのが投錨です。一方中継とはパロールのことであり,イメージにはない意味を補完しているとされます。
 外示的イメージは共示から自由で無垢な存在だとバルトは主張します。さらにバルトは発展させて, デッサンや絵画には作者による「規則化された置き換え」=コード化がある一方,写真はコード化されておらず,この「コードの不在」こそが写真の《自然である》という神話を強化しているのだ,と記しています。「写真はものがそこにあるという意識ではなくて,そこにあったという意識を据える」,つまり写真は現実的なものであり,過去形の表現手法だというのです。
 共示的イメージは不連続なものであり,文化的なコードで読み取られます。同じ一つのイメージの読み取り方の種類は人によって異なります。その人のもつ「文化的なコードの辞書」あるいは引き出しの数で変わるのです。イメージのラングとは,発したパロール全体であるだけでなく,受信したパロール全体でもあります。
 さて,修辞学はイデオロギーのシニフィアンの集合体として現れます。共示項はイメージ全体のなかで不連続かつ遊走的な特徴を作り出しており,つねにディスクールには外示が残っていますパラディグムである共示項を外示のサンタグムを通じて結び合せることで,《自然化》されるのです。
 このように,イメージのシステム全体のなかでは,一方で共示項(《象徴》)のレベルはパラディグム的(《物化》された凝集)ですが,もう一方で外示のレベルではサンタグム的(《流れる》凝集)なのです。サンタグム≒パロールであり,その象徴をディスクールが自然化しています。マス・コミュニケーションの作品はどれも,サンタグムのもつ自然の魅惑と,不連続な象徴に隠れた文化の読解可能性を複合させていることが明かされて,終わります。
考察1:「エクリチュールの文明」について
 中学生の頃趣味として写真撮影をはじめたとき,言語を介さない視覚情報による表現に魅力を感じました。しかし,手にしたばかりの一眼レフカメラで綺麗な空や可愛らしいオブジェを脈略なく撮っていた筆者は,単に写真そのものだけではメッセージ性の力不足を実感するようになりました。
 写真を上達したいと思い,手にとったのは『アサヒカメラ』などのカメラ雑誌で,そこには月例コンテストの入賞作品が掲載されていました。いまでは恥ずかしい話ですが,当時の筆者は写真に「タイトルをつける」ということすら考えたことがなかったのです。タイトルや撮影地が記された入賞作品からは,写っている人々の話し声や温度,匂いすら伝わってきそうな臨場感があり,付記されたプロ・カメラマンの選評を穴があくまで読み込んだものです。
 これが,写真の言語的メッセージ性を無意識に感じ取った原体験だったように思いますが,このとき筆者はまだ「エクリチュール」という概念を知りませんでした。
 高校生になった筆者は,写真を「鑑賞する」という新しい楽しみ方を知り,写真美術館に入り浸るようになります。パソコンのモニターにずらっと並んだ自らシャッターを切った写真の一覧を眺めても特別な感情は湧いてこないのに,額装されたプリント作品が掛けられた美術館の展示室に一歩足を踏み入れるだけで何故こうも心躍るのでしょう! それは,展示される作品がキュレーターによる選別を経て一連の展示を成すためにストーリー(それは明示されていなくとも言語的なメッセージでしょう)が与えられており,一枚一枚の写真には観る者に語りかけるキャプションがあったからです。さらに共示的イメージがちりばめられた芸術作品としての写真には,「文化的な知」を駆使して読み解く楽しみがあり,外示的イメージを超える写真を撮ることのできなかった(ほとんどの写真初心者はこれなのです)筆者の好奇心は見事にくすぐられたのです。
 しかし,当時の筆者は以上のことを理解して美術館に足繁く通っていたわけではやはりありませんでした。
 筆者が「エクリチュールの文明」に生きていることを認識したのは大学生の教養課程に入ってからのことでした。ソシュールをはじめ構造主義を学び,ロラン・バルトの文章を読み(実は高校ですでに触れていたはずなのですが,美術館に通うのに忙しかったあまりすっかり認知していなかったようです),「私たちはまだ,かつてないほどにエクリチュールの文明なのだ」という言葉に出会ったときは,まさに青天の霹靂でした。写真に限らず,絵画や漫画,映画,テレビ番組に至るまであらゆる表現が言語的メッセージと不可分であるということは,鮮烈な発見でありました。この考えに出会う前の筆者が無意識に触れ,影響を受けていたエクリチュールの圧倒的存在感をはじめて認識したとき,眩暈を覚えそうになったものです。
 自らが毎日何十枚とシャッターを切っている写真がどうして味気なくて陳腐なのか,それはバルトが明らかにしてみせた3つのメッセージのうち,外示的イメージしか持たない短絡的な画ばかり作っていたからでした。その答えに出会った筆者は,はじめて写真のメッセージ性と向き合うことができ,写真論と並んで関心をもっていた身体論を学ぶなかで浮かんだBorderlineという独自のテーマで作品を撮り始めました。
 さて,ここでエクリチュールにまつわる思案は終わりません。写真展だけでなく絵画展も多く鑑賞するようになり,展示会ごとに異なる多彩なキャプションに出会うなかで,「実はキャプションはとても特殊な言語なのではないか?」という考えが浮かぶようになりました。キャプションは,バルトの述べたエクリチュールとは呼べないのではないか。まったく新しい転回の着想は,バルトが至らなかった写真の持つ未知の表現可能性を示しているのかもしれないと夢想しています。
 この次節『記号論による芸術表現としての写真の理解−ロラン・バルトの写真論を通して−』の第2章で詳しく記していますので,是非ご覧ください。
考察2:本当に写真は《自然である》のか?
 バルトは『イメージの修辞学』のなかで,広告写真を題材に写真のもつメッセージを3つに分けて論じました。なかでも彼は,外示的なイメージ(写真に写っている物体が実体としての物体そのものを指し示しているということ)を重視しており,この特徴から写真は《自然である》と結論づけています。さらに写真だけがコードをもたないメッセージ性を孕んでいるというのです。
 しかしながら,筆者は次のような点で写真はもはや自然なものとはいえないと考えます。
・写真はコード化されていない?
→バルトは,すべてのイメージのうちで写真だけが,不連続な記号や変形の規則の助けを借りて情報を形成することなく,情報を伝達する能力をもっていると記しました。しかし,たとえばアンディ・ウォーホルのマリリン・モンローの作品を思い浮かべてみましょう。ウォーホルは有名な歌手や映画俳優,スポーツ選手といった,日々膨大な数が複製・印刷・消費され,もはや個々の一枚一枚の写真に人々が違いを感じなくなっている「スター」の顔写真を素材に「複製技術」の様相を鋭く描写しました(飯沢 耕太郎『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書,1996年),pp. 198-200)。マリリン・モンローという「スター」の写真,それをタイルのようにシルクスクリーンに転写する手法には,バルトのいうところの「規則化された置き換え」が間違いなく存在するでしょう。
・写真は純粋なのか?
→バルトは,写真の外示はデッサンのそれよりも純粋であると考えました。しかし,Photoshopに代表される写真レタッチ(加工)ソフトについて考えてみましょう。今日の商業写真は,すべてがPhotoshopによるレタッチ作業を経たうえで公表されているといっても過言ではありません。そのレタッチ技術は,一般の人々を欺くために非常に精緻に巧妙に行われます。このような加工を通した写真のもつ外示性がそれでも「純粋」で「自然」といえるでしょうか? バルトは,構図決定,距離,光線,ソフト・フォーカス,長時間露出などの人間による写真への介入はすべて「共示」の次元に属すると主張しましたが,レタッチという人間による写真への介入はもはや共示的でも外示的でもありません。バルトが唯一例外と認めた「トリック写真」の範疇すら超えているのです。
・写真は過去形?
→バルトによれば,「写真はものがそこにあるという意識ではなくて,そこにあったという意識を据える」ものであるといいます。ですが,この主張にも疑問を投げかけたいと思います。写真は現実の一瞬を切り取ったものですから,そこに写っているものはたしかに撮影時点の過去であることには違いありません。しかしながら,ユージン・スミスの代表作『楽園への歩み』は,「そこにあった」という意識よりも,「撮られた瞬間のその後,未来」をより意識させる作品になっています。写真とは「過去形」と十把一絡げにいえるほど単純な表現手法ではないはずです。
・写真は幻想でない?
→最後に,バルトは「写真は幻想として生きることは決してない」と述べました。これもいささか乱暴な主張でしょう。アンドレ・ブルトンによって始められたシュルレアリスム運動には写真家も共鳴し,数多くのシュルレアリスム作品が生み出されました。それらのなかには,幻想として存在するものがたしかにあると感じます。
記号論による芸術表現としての写真の理解
—ロラン・バルトの写真論を通して—
序 章
 写真の技術は19世紀にフランスのダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre)によって確立されたとされる。以後,今日に至るまで膨大な数の写真作品が制作され,消費されてきた。写真は新聞や雑誌において今日もっとも多用されているメディアの一つであり,大量生産・大量消費の象徴といえる。一方で,写真は芸術表現の一手法としてもその可能性が模索されてきた。既存の絵画や彫刻といった手法に比べ,未だ認知度は低いものの,芸術としての写真の役割はコンテンポラリーアートにおいて確実に存在感を増しつつある。
 写真のもつメッセージ性はどのように理解されればよいのだろうか。フランスの批評家ロラン・バルト(Roland Barthes)は『イメージの修辞学』において写真のメッセージの記号論的分析を行った。
 芸術における写真という表現手法に独自性があるとすれば,写真を特徴付ける要素は一体何なのか。写真作品にメッセージがあり,それを我々が受け取っているのであれば,そのプロセスは記号論的に解析できるはずである。本論では,バルトの主張を踏まえたうえで記号論の側面から写真のメッセージ性を詳らかにすることを目標とする。
 まず第1章では,バルトが『映像の修辞学』で展開した記号論による写真分析の概要を説明する。第2章では写真のもつ言語的メッセージに焦点を当てて考察を行い,第3章では写真と絵画との比較から写真の独自性を探っていく。第4章でバルトが写真について《自然である》とした神話について論じたうえで,第5章ではバルトが分析しなかった新たなメッセージ性の可能性を明らかにしていく。
第1章 ロラン・バルトの『映像の修辞学』における写真論
 バルトは『映像の修辞学』において,広告写真を題材にイメージのもつメッセージを分析している。まず,それについてまとめておく。バルトによれば,イメージには3つのメッセージが含まれている。最初に,タイトルやキャプションといった言語的なメッセージ。これを読み取るには当然言語というコードを要する。言語的メッセージはさまざまな形であらゆるイメージに備わっているとされ,それゆえバルトは「私たちはまだ,かつてないほどにエクリチュールの文明なのだ」(1)と述べている。二つ目が共示的なイメージ(象徴的なメッセージ)である。共示とは暗示のことであり,イメージから呼び起こされる不連続な記号を指している。バルト曰く,共示的イメージを読み解くには,文化的な知が必要である。三つ目が外示的イメージ(字義的なメッセージ)である。ソシュール(Ferdinand de Saussure)によるシニフィアン(signifiant)・シニフィエ(signifié)の概念を用いて,シニフィエは実際のオブジェでありシニフィアンは写真に写っている同じオブジェである,すなわち外示的イメージとはコード化されていない同語反復的なイメージであると記している。
 これら3つの写真のもつメッセージは互いに関係し合っている。言語的メッセージは共示的イメージ・外示的イメージに対して投錨と中継という2つの機能をもつとバルトは述べた。言語的メッセージというテクストは,イメージのもつシニフィエの自由を抑圧し,その意味を固定する役割をもっている。これが投錨である。一方,中継とはパロール(parole,ソシュールの用語で社会制度・規則体系としての言語に依拠しながら,個々人が個々の場面で行使する言葉のこと)としての役割を指しており,イメージにはない意味を補完している。
 外示的イメージと共示的イメージについてもより詳しい記述がなされている。外示的イメージとは前述のようにコード化されていない。このコードの不在は写真特有のものであり,写真が《自然である》という神話を強化しているとバルトは主張する。
 一方,共示的イメージは文化的なコードで読み取られるものであった。この文化的なコードを読み取るには,イメージの受信者に「文化的なコードの辞書」のようなものが備わっている必要がある。各々がもつ「文化的なコードの辞書」は異なるから,同じ一つのイメージの読み取り方も人によって異なることになる。バルトは,「イメージのラングとは,発したパロール全体であるだけではなく,受信したパロール全体でもある」(2)と述べている。
 さらに外示的イメージは,不連続に遊走している共示的イメージ同士をつなぎ合わせることで,全体としてイメージを「自然化」するのにはたらいている。イメージは,外示のレベルでは《流れる》凝集としての自然の魅惑を備えており,同時に不連続に配置された象徴として隠された文化の読解可能性を兼ね備えているのである。
(3)
第2章 言語的メッセージの考察—写真に「作者の死」は起こるか—
 バルトは,すべてのイメージには必ず言語的メッセージが付属していると主張した。実際,言語的メッセージとイメージとの関係は切っても切れないものである。芸術作品としての写真作品を鑑賞する際には,必ず作者・タイトルといった言語的情報がつくし,バルトの言う中継としての補完的にはたらく言語的メッセージが作品の鑑賞に不可欠な場合が多々ある。
 考えてみると,キャプションの一切ない芸術展示はほとんどないように思われる。我々が作品を鑑賞する際は,作品を追っていると同時にキャプションを追っているのである。キャプションには題名や作者のみが記されていることもあれば,作品制作の背景や「もっともらしい」解釈が載せられていることもしばしばである。私たちはキャプションの語る内容をなぞり,それに沿って作品を眺める。キャプションは写真のメッセージを説明しており,それは一つの立派な物語である。キャプションを無視し,一切の影響を受けずに作品を鑑賞することは不可能であり,キャプションは私たちの作品鑑賞の自主性を束縛している。
 ここでいうキャプションは,バルトが『物語の構造分析』で論じたテクストとはやや性質を異にするようである。バルトは,現代の書き手はいかなることがあっても,エクリチュールに先立ったり,それを越えたりする存在とは見なされず,テクストを《解読》するという意図はまったく無用になると述べている(4)。
 前出の通りバルトは「私たちはまだ,そしてかつてないほどにエクリチュールの文明なのだ」(1)とも記している。では,言語的メッセージをその内に孕んだ写真作品もまた,エクリチュールの一つとして扱われるべきであろうか。すなわち,写真作品の鑑賞においても「すべては解きほぐすべきであって,解読するものは何もない」(5)ということになるのだろうか。もしそれを仮定すれば,作品に備わっている文化的なメッセージをいかに受け取るかどうかは,本来鑑賞者の知識や教養に委ねられており,写真もまた,「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物」(6)に他ならないことになる。
 しかし,写真作品の鑑賞においては,キャプションの筆者は絶対的な存在である。それは,作品の撮影者の代弁者となって作品を解説する。作品の撮影者の生い立ちや経歴を語ることを憚らないし,作品に写っているオブジェを流暢に解説し,撮影者の作品に込めた「意図」をさも全て知っているかのごとく言葉を紡ぐ。そしてキャプションは自らに従って作品に込められたメッセージを《解読》することを無言のうちに要求する。キャプションはやや饒舌すぎるのである。
 キャプションに批判的に向き合えば,鑑賞者の自主性は保たれると考えるかもしれない。しかし,たとえキャプションの主張に疑問や反論を抱いたとしても,その思考自体がキャプションによって惹起されたものであることに変わりはない。キャプションは作品の鑑賞の仕方を秘かに,しかし確実に「投錨」している。我々は芸術鑑賞を自由な行為であると思い込んでいるが,キャプションは作品のもつメッセージをフィルタリングし,誘導する役割を果たしている。そうだとすれば,キャプションそのものも,それが支配する作品も,もはやエクリチュールとは呼べない。バルトは『物語の構造分析』で「作者の死」を主張したが,キャプションの支配する写真作品においては,「作者の死」ではなく,撮影者からキャプションの筆者へといわば作者の「転移」が起こっているのだ。

No. 1   Robert Capa, Chartres, France, 18 August 1944.

 作品No.1は,キャプションの威力を実感できる作品の一つである。筆者はこの作品の「最初のキャプション」として,作者と撮影地,撮影日しか記さないことにしよう。ここで,ロバート・キャパ(Robert Capa)が著名な戦争写真家であることを知っており,撮影された日付とフランスという撮影地の情報のみから,被写体の状況を事細かに読み取ってしまう者がどれだけいるだろうか。
 この作品のメッセージを伝えるには,もう少し言葉が必要となる。この報道写真は,第二次世界大戦中にドイツ軍占領下から解放されたフランスのシャルトルで撮影された。中央に写っているのは,占領中にドイツ兵との間に子をもうけたフランス人女性である。この写真は,解放後に女性が「国家の裏切り者」として髪を剃られ,街中で市民の見世物になって嘲笑を受けている様子を写したものである。腕に子を抱えた彼女の脇にはフランス人兵士がぴったり付いて歩いている。
 キャパは,ドイツ軍からの解放という明るいニュースの裏で起きている市井の痛ましい情景にレンズを向けた。戦勝国であるフランスにも戦争は確実に深い爪痕を残していったことを,彼はフィルムに記録している。この作品からは,勝者にも敗者にも不幸をもたらす戦争の悲惨さを,そしてキャパの明確な反戦感情を読み取れるのである。
 もしキャプションが一切なければ,以上のような鑑賞をすることはほぼ不可能に近い。バルトの述べたように,写真は言語的メッセージとともになることではじめてそのメッセージを余すところなく伝えることができるのであり,そこにはテクストでは「死んだ」はずの作者が確実に生きている。キャパという撮影者の存在を,あるいはキャプションの筆者の存在を意識することなく,作品のメッセージを読み解くことは不可能であろう。
 コンテンポラリーアートの世界においても,写真とキャプションの密接な関係を逆手にとった前衛的な作品がいくつか制作されている。​​​​​​​

No. 2   Kenneth Lum, Don't Be Silly, You're Not Ugly, 1993.

 作品No.2は作品自身の一部がキャプションになっている挑戦的な作品である。コットン(Charlotte Cotton)は,「この作品は,写真の背景にあるアイデアとメッセージを十分に伝えるには,キャプションが必要だと主張する。写真だけで作品を『説明する』テキストがなければ,たとえアーティストによって演出されても,その意味は曖昧で謎ありげなままだ。《ばかなこと言わないで,あなたは醜くなんてない》では,写真とともに,白人女性が友人に向けた慰めの言葉が書き込まれ,われわれの日ごろの美と人種に関する社会的価値観のあり様が浮き彫りにされる」と評している(7)。本作では,キャプションがバルトのいう投錨と中継の両方の役割を果たしているといえる。イメージは文字情報と組み合わさらない限りメッセージを明確に伝えることができないと割り切った作品であり,私たちのイメージに対する先入観を崩し,写真作品の鑑賞というプロセスにいかにキャプションが深く入り込んでいるかを明らかにしてくれる。写真作品を観ているにもかかわらず,私たちは言語の威力を再確認するのである。
 一方で,純粋にイメージのもつメッセージ性(すなわち,バルトのいう共示性と外示性)のみを表現することを目指した作品もある。

No. 3   Roy Villevoye, Presents (3 Asmat men, 3 T-shirts, 3 presents), 1944.

 作品No. 3をこの場で説明するのは極めてパラドキシカルである。なぜならば,文字表現でこの作品に言及した時点で,作者の意図した視覚表現のみのメッセージ性に言語的メッセージを付加することになってしまうからである。ともあれ,説明を加えることにしよう。コットンによれば,この作品が伝えるのは「文化的差異」(8)であり,「現地の人たちにオランダから持ってきたTシャツを着せ,横一列に並べて写真を撮った。その画像は19世紀の人類学的資料を想起させる。ヴィルボイはこの戦略によって,2つの文化間で行われた貿易の歴史と,植民地の先住民に自分たちの趣味志向と礼儀作法を押しつけようとした西洋人の熱意を,みごとに映し出している」(9)。
 撮影者のヴィルボイは,先住民,そして原色のTシャツという視覚的に鮮やかなオブジェを用いることで,極力言語的メッセージを排除して視覚情報のみで我々に訴えかけようとしている。しかしながら,やはりキャプションによる解説からは逃れ得ない(筆者がこうして文字を用いて作品の説明をしているように)。言語から逃れようとすればするほど,我々はかえって言語の存在感に気づかされるのかもしれない。
第3章 写真と絵画—写真の外示性について—
 バルトは自ら分析した写真のもつ3つのメッセージのなかでも,とくに外示的イメージを重視していた。彼は写真とデッサンとを対比し,デッサンとは「規則化された置き換え」であり,「シニフィアンと非シニフィアンという分割を生じさせ」,さらに「修得を必要とする」点においてコード化されているとした(10)。対して,写真の外示的イメージはコード化されていないと主張する。コードを介することなく,写真に写っているものを現実に存在するそのものとして認識できると考えたわけである。
 これらの主張は一見もっともらしいものであるが,いささか写真を単純化しすぎてはいないだろうか。バルトは,「デッサンはすべてを再現するわけではなく,再現するものはたいていごくわずかである」(11)と述べているが,ここで彼のいうデッサンとは紙面に書かれた描線にすぎない。バルトが写真における外示的なオブジェに対応させて比較したものがデッサンの描線というのであれば,写真を愚弄しているとの誹りを免れ得ないだろう。デッサンにおける木炭の描線と比較されるべきなのは,せいぜい写真におけるフィルムのハロゲン化銀か,ゼラチン・シルバー・プリントの粒子といったところである。写真と本来比較されるべきなのは,デッサンによってオブジェの本質を描き出そうとする行為全体であり,さらに言えばデッサンという行為の延長線上にある絵画なのである。
 モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)は『眼と精神』のなかで,次のように絵画について言及している。
 たとえば,線は対象それ自体の実証的な属性でありその特性であるという,線についての散文的な考え方がかつてあった。線とは,世界のうちに現存するものとみなされた〈林檎の輪郭〉や〈畑と草原との境界線〉のことであり,それらは言わば点描されていて,鉛筆や筆がその上をなぞりさえすればよいといったものであった。このような線はすべての近代絵画によって,いな,おそらくは絵画全体によって否認されている。(中略)目に見える線それ自体というものはない,林檎の輪郭や畑と草原の境界線はここにあるのでもあそこにあるのでもなく,それらはいつも見つめられている点のこちら側,あるいは向こう側にあり,いつもわれわれが見つめるもののあいだ,またはその背後にあるものであり,物によって含意され,そして全くいやおうなく要求されさえするが,しかしそれらは物そのものではない,ということである。それまでは,これらの線が林檎や草原の限界を劃するのだとみなされていたが,むしろ林檎や草原はおのれ自身から形を引き出して,「おのれを形にする」のであり,林檎や草原はまるで空間に先立つ背後世界から来でもするように,〈見えるもの〉のうちに降臨するのである。(12)
 絵画からまさにその描線によって描かれたものしか知覚できないということはありえない。写真では映っているオブジェをありのままの形で認識するが,絵画と写真とでは認識の方式が根本的に異なると言ってもよい。デッサンについても同様である。線に着目すべきではなく,メルロー=ポンティの述べたように「空間に先立つ背後世界から来」る「おのれ自身から形を引き出」すものにこそ思いをはせるべきなのである。彼はマティスの絵画を持ち出してこうも書き記している。
 マティスの女たち(当時の人たちのさまざまな嘲笑を思い出すがよい)は,いきなり女だったわけではなく,女になったのである。女の輪郭を「物理学的・光学的」なやり方ではなく,脈として,つまり肉体的な能動・受動の系の軸として見ること,マティスはこれをわれわれに教えたのだ。具象的であろうとなかろうと,いずれにもせよ,線はもはや物の模倣でもなければ物そのものでもない。(13)
 このように,絵画は写真と本質的に異なる表現手法であり,描線とはオブジェを指し示すためのコードであると捉えること自体が誤っている。バルトが展開した「写真は外示的であり,絵画あるいはそれに包含されるデッサンは外示的でない」という対立軸からは根本的に脱却すべきなのである。
 そもそも写真の誕生以来,写真と絵画とは長い間互いに比較される関係であり続けてきた。写真術の歴史はカメラ・オブ・スクラにまで遡ることができる。これは,ピンホールカメラの原理で風景を暗箱内に投影する装置であり,画家が風景を描くために用いた。カメラ・オブ・スクラでは単に像を映すのみで定着させることはできなかったため,像を定着させる手法の研究が進められ,ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce)の研究を発展させる形で1839年,画家であったダゲールが写真の原型となる「ダゲレオタイプ」を完成させた。それ以来さまざまな技術が発明され,写真術は今日に至っている。
 技術の変遷と同様に,写真による芸術表現にも流行り廃りがある。19世紀から20世紀初頭に栄えたのが,ピクトリアリスムである。これは,写真を用いて絵画的な表現を追求するというものであった。宗教画的な構図を模倣したり,印象派の絵画を思わせる淡いトーンを多用したりといったことが行われた。ピクトリアリスムは,当時芸術表現としての地位が低かった写真の認知度を高めるために興った潮流であったが,やがてその絵画に擦り寄ろうとする姿勢が厳しく批判され,凋落の一途をたどる。そして,絵画という巨大な存在から離れて,写真独自の表現手法が模索されるようになっていくのである。
 ピクトリアリスムが痛烈な批判を受けたのは,その表現がメルロー=ポンティのいう「『物理学的・光学的』なやり方」で,絵画のような見た目を模倣したに過ぎず,本質である「能動・受動の系の軸として」対象を捉えていなかったからである。ピクトリアリスムはまさに単なる線の集合に過ぎなかったのである。「コード化されているか否か」という画一的な視点で写真を絵画と比較することは,写真論からみても絵画論からみても不適切な論評であるといえよう。
 そこで,コードの有無という観点からではなく写真と絵画とを比較分析することにしよう。メルロー=ポンティは,写真と絵画について次のような考察を行っている。
 では,いったい,脚が地面から離れた瞬間に,したがってその脚をほとんど身体の下にたたみこみ完全に運動しきっているところを撮された馬が,ただその場で跳び上がっているようにしか見えないのは,なぜだろうか。そしてそれとは逆に,ジェリコの描いた馬たちが画布の上を,それも全速力で走る馬にはおよそありえないような姿勢で走っているのは,なぜだろうか。それは,彼の『エプサム競馬』(No. 4)の馬たちが,地面に対する身の構えを私に見せてくれ,しかも,私が熟知している身体と世界の論理に従えば,この空間に対する身の構えは,また持続に対する構えでもあるからなのだ。(中略)時間の衝迫がただちに閉じてしまうはずの瞬間を,写真は開きっぱなしにしておく。写真は時間の超出・侵蝕・「変身」を打ちこわしてしまうが,絵画は逆にそれを見えるようにしてくれる。というのは,馬はそうしたもののなかでこそ「ここを去ってあちらへ行く」ことになるからであり,馬はそれぞれの瞬間のうちに脚を踏み入れているからである。(14)​​​​​​​

No. 4   Théodore Géricault, Le Derby d'Epsom, 1821.

 写真が絵画とは大きく異なる性質の一つとして,その分断性を挙げることができる。絵画は1枚のなかで時間の幅をもたせることが可能である。もちろん,写真でも露光時間を変えることはできる。しかし,長時間露光で得られる像は連続体としてのブレた像であり,ジェリコの絵画『エプサム競馬』(No. 4)のような生き生きとした馬の疾走を表現することはできないだろう。露光時間を延ばしても,フィルムに写るものは結局,始点と終点のある有限なものになってしまう。「ここを去ってあちらへ行く」という滑らかにつながった動作を写真で伝えることは不可能に思える。絵画のなかで時間という制約は存在しないが,写真とは本質的に時間を分断して記録する媒体だからだろう。
 そして,写真は空間的にも世界を分断する。写真で多面的に世界を記録することは不可能である。多重露出でその問題を解決できると主張する者がいるかもしれないが,多重露出はかえって1ショットが極めて一面的な視点であることを強調するにすぎない。一方,絵画には空間的制約も存在しない。パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は同じオブジェを複数の角度から見て同時に描き出した。このような芸当は写真には不可能である。
 これらの分断性に思いをはせるとき,写真をそれでも外示的だということが果たしてできるだろうか。時間を,そして空間を分断する写真とは,立派に外示性を失った表現手法である。究極的に言えば写真とは,オブジェの一瞬でかつ一面的な様子を記録したものなのである。スナップ写真が日常生活の偶然起こった場面を切り取るものであるように,写真には偶然性の性質が強い。写っている世界の偶然性と,我々が普段過ごしている世界そのものを写しているという必然性との間を行ったり来たりする「ゆらぎ」こそ写真の本質である。
第4章 写真は本当に《自然である》のか
 写真の外示性を否定したいま,バルトの写真は《自然である》との主張は未だ正当性を保っているだろうか。本章では,写真の自然さについて論じていくことにする。
 スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)は「写真は模倣芸術の中では一番写実的で,したがって手軽なものであるというありがたくない評価がある」(15)と述べている。事実,写真は絵画など他の表現手法に比べて写実的である(前章で述べたように外示的ということではもはやない)し,技術革新とともに写真を容易に大量複製することが可能になった。ソンタグによれば,「近代社会では,現実に対する不満はこの世界を複製したいという憧れによって旺盛に,また憑かれたように表現されるのである。まるで現実をオブジェの形で—写真の位置から—眺めることによってしか,それは真に現実的,つまり超現実的ではないかのようである」という(16)。写真という大量生産・大量消費できるメディアは,近代社会のニーズに合致したおかげで,大衆文化において急速にその地位を高めてきた。
 これは写真が《自然である》ことにつながるだろうか。ソンタグは写真を映画と比較している。彼女によれば,映画は鑑賞時間があるので,それに従うことでしか知覚できない(17)。一方の写真は「ただの一瞬間を好きなだけ味わい楽しむことができる」(18)。「写真に撮った世界と現実の世界との関係は,スチールとムーヴィーとの関係と同じで,本質的には不正確なものである。生活は一瞬照らし出されて永遠に定着される重要な細部にかかわっているわけではない」(19)のである。映画がどれほど《自然である》のかどうかはここでは論じないこととして,少なくとも写真が鑑賞という観点から《自然である》とは言えないことは確かである。
 ソンタグによれば,写真家とは,そのままでは殺風景な世界から「くず拾いの足跡を辿る」(20)かのようにオブジェを収集し,美しく配列された人工物として世界を再提示する。そこには,バルトのいう「規則的な配列」が確実に生じており,この点においても彼の主張した「写真は《自然である》」という神話は崩壊することになる。​​​​​​​

No. 5   Robert Doisneau, Le Baiser de l'Hôtel de Ville, 1950.

 ここで,ロベール・ドアノー(Robert Doisneau)の代表作の一つである『パリ市庁舎前のキス』(No. 5)を見てみよう。写っているのは市庁舎近くのカフェの前でキスを交わす男女であり,そのロマンチックな一瞬を捉えたスナップ写真は私たちを惹きつける。
 ところで,この作品は《自然である》といえるだろうか。前章で論じたように,写真は時間と空間とを分断して提示する。もし,写っているのが口づけを交わすために男が女の肩を抱き寄せる前だったら。すでに口づけを終えてお互いの身体がこれほどに密着していなかったら。この写真は男女の接吻の瞬間を絶好のアングルで捉えているが,もしも正面からでなく背後から撮られた写真だったら。通行人が被って男女の顔が隠れてしまっていたら。どの仮定においても,この写真のもつメッセージ性はおそらく皆無に等しくなり,とくに魅力も感じない無名の写真として忘れ去られたことであろう。だが,これらの仮定に基づく「失敗作」の方が,撮られる可能性ははるかに高いはずであり,その点で《自然である》といえる。
 これほど美しいスナップ写真が撮影されることは,ある意味では不自然そのものである。実はこの写真はスナップではなく,演出されたものであったことが後日明らかになっている。興味深いことに,演出であることが判明してもこの写真の人気が衰えることはなかった。この「出来すぎた」写真の不自然さの訳が判明したことで,むしろすんなりと鑑賞できるようになったとでもいうかのようである。
 バルトは,写真が《自然である》根拠として,「そこにあったという意識を据える」(21)ことを挙げている。しかし,キスは実は演出だったのだから,現にそこにはなかったのである。この写真が観る者に与えるメッセージは,外示的イメージとしてのキスそのものではなく,パリ市庁舎前のカフェで交わされる素敵なキスという共示的イメージに他ならない。我々は,そこに写っているシニフィアンが自然さを欠いたものであることを理解しながら,シニフィエに想像力を膨らませるのだ。
 この例が明らかにするように,写真はとても自然な表現手法とはいえない。フレーミング,構図,光と影の配置,これらすべてが被写体の不自然さを演出しているのだ。しかし,不自然さが違和感につながってしまうと,たちまち写真のメッセージ性は崩壊してしまう。写真家の技術とは,いかに違和感なく不自然さを演出するか,なのである。写真の鑑賞とは,作品が幾重にもまとった「出来すぎた」不自然な演出を受け入れる行為といえるのである。
 写真は不自然な演出性をもっているからこそ「この世界を複製したいという憧れ」を満たすことができ,近代社会の要請に応えることができたのである。大量に生産されては消費されていくという写真特有のプロセスもまた,写真の不自然さを助長するのに一役買っているのかもしれない。
第5章 共次的でも外示的でもないイメージ
 バルトはイメージのもつメッセージを,イメージに付属する言語的メッセージを除けば,共次的なイメージと外次的なイメージとに分類した。共次的なイメージとはすなわち象徴的なメッセージのことである。バルトは写真に写り込んでいるオブジェが,単体あるいは全体として何らかのメッセージを象徴していると考えた。これはもっともらしく思われるが,その一方でバルトはイメージと象徴とを直接的に結びつけすぎているようにも思われる。彼の論考では,イメージがストレートになんらかの概念を象徴することが前提となっているのだ。
 バルトが「イメージの修辞学」で分析の題材として取り上げたのは広告写真であった。バルト自身認めている通り,「広告のイメージとは意味作用が意図的」であり「記号が最良の読みを目指して構成」されている(22)。広告写真は一目で広告主の意図が伝わらなければならない。その点で広告写真とはいささかわざとらしいものである。このような単純化された状況でイメージと共次的なメッセージとがストレートに結びつくことには納得がいく。だが,芸術写真を考える際には,作品に写っているオブジェは広告写真ほどストレートに何かを象徴することはむしろ稀である。芸術写真の各々の要素がもつ共次性は非常に曖昧であり,それが象徴する内容も広告写真のようにあからさまなものではない。
 ここで,写真には「共示的でも外示的でもないイメージ」があると仮定してみよう。第3章で,写真と絵画とを比較することで写真のもつ分断性に焦点を当てたが,今一度この性質について考察を深めてみる。
 写真と絵画とで役割が大きく異なる存在として,フレームを取り上げる。絵画において,フレームは作品を区切る絶対的な枠組みである。画家は,キャンバス上のフレーム内に自らの世界を描き込んでいく。観る者がフレーム外に作品の続きを連想することはあっても,絵画そのものはフレーム内で完結している。
 一方で,写真におけるフレームとは絵画におけるそれよりも相対的な存在である。写真が対象とする現実の世界にもともと区切りなど存在しない。写真家は滑らかにつながった世界からその一部を切り出してきて,観る者に提示する。ここにもやはり写真の分断性を見出せる。写真家は制作の過程で,必要な要素をフレーム内に配置し,不要なものは排除していく。写真がしばしば「選択の芸術」と呼ばれる所以である。こうしてフレームで区切られた世界はあまりに恣意的である。観る者が想像するしないにかかわらず,フレームの外にも世界は滑らかにつながっている。フレームは冷淡にもそれを分断して閉ざしてしまう。だが,その分断性には同時に,滑らかにつながる世界の連続性を鑑賞者に意識させるというややパラドキシカルな作用も備わっている。​​​​​​​

No. 6   Henri Cartier-Bresson, Sifnos, 1953.

 フレームを巧みに作品制作に活かした写真家の一人に,アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)が挙げられる。カルティエ=ブレッソンは小型カメラのライカを駆使したスナップ写真の名手であった。彼が1953年にシフノス島で撮影した作品No. 6には周囲に黒い縁が付いている。これは,フィルムの撮像面のフレームをそのままプリントに焼き込んだものである。通常はプリント時に枠を狭めて取り除くところをカルティエ=ブレッソンはあえて作品に取り入れた。こうすることで,本作品にはトリミングが施されておらず,撮影の時点で映り込むオブジェや構図が完成していたことがわかる。中央に写っている階段を駆け上がる少女,エーゲ海を想起させる白い壁の家々,それとコントラストをなす木製の扉,路地に伸びる影,わずかに見える青空。カルティエ=ブレッソンは,シャッターを押すというただ一度の操作のみで必要十分な世界をフレームで切り出した。このようなフレームの作用は,絵画では見られないものである。
 このフレーミングの分断性というメッセージはどのように理解すればよいのだろうか。言語的メッセージではないし,外示的イメージでもない。かといって,何かを象徴する共示的イメージというわけでもない。そもそもフレームは,被写体であるオブジェと同列に扱うことができるのだろうか。
 記号論的に考えれば分断とは,分節することとして理解できる。分節とは,言語に通ずる概念であろう。写真が,世界を「ディジタルな単位の配列に規定」(23)するものだとすれば,バルトの写真論は根本に立ち返る必要がある。彼は,あくまでアナログ的なコードを考えることができるかという前提で写真の分析を始めた。写真の分節性を認めるのであれば,驚くべきことではあるが,写真を言語活動と同様の発達した体系とみなして,もう一度記号論的に分析し直す必要が生じることになる。
終 章
 ここまでバルトの写真論を出発点に,写真という表現手法のもつ独自性を考察してきた。写真におけるキャプションという言語的メッセージの絶対的な存在感は,バルトの述べた「エクリチュールの文明」を支持するものであると同時に,彼のテクスト論に対立する特殊性もはらんでいた。バルトがスペクトル分解した写真の3つのメッセージのうち,外示的イメージはその存在が揺らぎ,写真の《自然である》との神話は成り立たないことが明らかになった。その代わりに,写真とは「不自然な演出」と「分断[分節]性」を巧みに利用した芸術であることが示された。
 写真がほかの表現手法に比べ写実的であることは疑いようのない事実である。私たちのふだん暮らしている世界が(外示的ではなく,あくまでより写実的にという意味で)再現されているという感覚が,写真の独自性の根幹を成しているのは確かなようだ。絵画や彫刻が無から作品を創造するプロセスだとすれば,写真術とは無限に広がる混沌とした世界からほんの一部を撮影者が意図的に規則正しく再配置し,フレームという箱庭に閉じ込めるプロセスなのである。あまりに雑然としたこの世界を整然と並び変えることで,日常生活では決して見いだすことのないドラマチックな世界が紙面から浮かび上がる。それは退屈な世界の再構成であり,言語的メッセージであるキャプションと写真が一体となることで,撮影者の意図したメッセージ性の純度はより一層高まることになる。この非日常的な感覚こそが写真の魅力であるならば,芸術表現としての写真の本質とは,近代社会の尽きることのない要請に応じて,非日常的な感覚を大量に生産しては大量に消費されていくというせわしなく儚いサイクルなのかもしれない。【了】

[注]
(1)    ロラン・バルト「イメージの修辞学」(『映像の修辞学』蓮實 重彦・杉本 紀子訳,ちくま学芸文庫,2005年),p. 20
(2)    前掲注(1)書,p. 36
(3)    前掲注(1)書,pp. 8-43
(4)    ロラン・バルト「作者の死」(『物語の構造分析』花輪 光訳,みすず書房,1979年),pp. 84-87
(5)    前掲注(4)書,p. 87
(6)    前掲注(4)書,pp. 85-86
(7)    シャーロット・コットン「これがアートであるならば」(『現代写真論』,大橋 悦子・大木 美智子訳,晶文社,2010年),p. 35
(8)    前掲注(7)書,p. 35
(9)    前掲注(7)書,p. 36
(10)    前掲注(1)書,pp. 28-29
(11)    前掲注(1)書,p. 28 
(12)    モーリス・メルロー=ポンティ「眼と精神」(『眼と精神』,滝浦 静雄・木田 元訳,みすず書房,1966年),pp. 290-291
(13)    前掲注(12)書,p. 292
(14)    前掲注(12)書,p. 294
(15)    スーザン・ソンタグ「メランコリーな対象」(『写真論』,近藤 耕人訳,晶文社,1979年),p. 57
(16)    前掲注(15)書,p. 57
(17)    前掲注(15)書,p. 88
(18)    前掲注(15)書,p. 89
(19)    前掲注(15)書,p. 89
(20)    前掲注(15)書,p. 85
(21)    前掲注(1)書, p. 30
(22)    前掲注(1)書,p. 10
(23)    前掲注(1)書,p. 9
[引用作品]
No. 1 ロバート・キャパ,無題,フランス・シャルトル,1944年8月18日
No. 2 ケン・ラム《ばかなこと言わないで,あなたは醜くなんてない》,1933年
No. 3 ロイ・ヴィルボイ《プレゼント(3人のアズマティ男性,3枚のTシャツ,3つのプレゼント),
    1994年
No. 4 テオドール・ジェリコ《エプサム競馬》,1821年(No. 4のみ絵画)
No. 5 ロベール・ドアノー《パリ市庁舎前のキス》,1950年
No. 6 アンリ・カルティエ=ブレッソン,無題,シフノス島,1953年
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