Galleryのテーマの一つ“Borderline”は実は身体論を考えるなかで着想に至ったテーマです。
高校生当時に出会った鷲田 清一氏の身体論に大きな衝撃を受け,医師となった現在でも私の医療に対する価値観の核をなす考え方になりました。
構成として,第I章では小説調の文章を綴り,第II章以降に評論が続きます。
お読みくださった方は,Contactのページより忌憚のないご意見ご感想をお寄せくださると嬉しいです。
わたしの身体を探して −自閉スペクトラム症の身体論−
I. 物語篇−メモワール
 メトロが終着駅にさしかかることを知らせるけたたましいベルの音で目覚めると,通勤や通学の客で混み合っていた車内には数名が座っているのみだった。メトロを降りて暗い通路を進み地上に出ると,強い日差しに一瞬たじろいだ。
 その年のパリは記録的な猛暑に襲われており,例年の7月の平均気温が20度前後のところが,40度近い気温が連日続いていた。テレビやラジオでは,観測史上最高気温に達するのではないかと連日報じていた。
 パリにはほとんどクーラーがない。真夜中の気温も優に30度を超え,異常気象にじりじりと睡眠時間を奪われていた私は,「スリにあうから絶対に寝てはいけない」ときつく言われていたメトロで居眠りをするようになっていた。
 病院へ向かう道を歩きながら,私は眠気を引きずっていた。
 ヨーロッパの夏は,日本のように湿度が高くないから,熱気がまとわりつくような不快感は少なかった。それでも今年の太陽は朝から強すぎて,アスファルトの照り返しが全身の血管を沸騰させるような皮膚の痛みと,屋内へ逃げ込んでも冷風を送ってくれるクーラーなどないという救いのない倦怠感を私は全身で感じていた。病院へ着く前から身体が重い。
 病院へ入る門の前では何人かのホームレスが生活していた。そのうちの一人は犬を飼っていて,骨と皮だけになった痛々しい姿だったが,毎日飼い主より先に起きては健気に門の前を走り回っているのだった。
 その犬も今朝ばかりは暑さに勝てなかったのか,眉間に皺を寄せるような苦悶の表情を浮かべる飼い主の横で起き上がれないでいる。
 すでに汗が全身の汗腺から噴き出している私は,ホームレスの彼と犬を見つめながら,こんなことを想う。汗で張り付いた服の,このべったりとした合成繊維の感触を彼も感じているのだろうか。太陽が私に絶え間なく与えるこの皮膚の痛みを,あの骨と皮の犬も味わっているのだろうか。
 暑さでそんな夢想ばかりが頭に浮かぶ7月のパリだった。
***
 眠気を紛らわそうとして,病棟へ行く前に一杯のカフェラテを頼んだ。私の通う自閉症病棟は広い敷地の真ん中あたりにあって,カフェインを胃に流し込みながら歩くのにちょうど良い距離だった。
 二階に上がると,病棟へ入る扉を開ける。鍵を挿してゆっくりと二回転。革靴にシューズカバーをつけて入ると,干されたシーツの臭いが鼻をついた。
 長い廊下の先で“彼”は私を認識すると,手にもったバスケットボールを床にたたきつけながら急突進してきた。彼に背を向けて,素早く鍵をしめた。振り向くと,彼はすでに私の目の前まで迫っていた。生傷だらけの彼の右腕が私の左腕にすっと伸びる。彼の指先が私の前腕に触れると,その感触を確かめるかのように彼は力をこめた。
 フランスの海外県で生まれた彼は,3歳になるころに自閉症と診断された。両親は彼が3ヶ月のときに離婚しており,母の再婚を機にフランス本土へ移住することになりパリへやってきた。
 彼の自閉症は重度であり,激しく興奮するたびに母親ひとりでは手に負えず,入院と退院を繰り返すような人生を送っていた。そして15歳になった彼は地域のアウトリーチ活動を行う医療機関から紹介を受け,重度自閉症患者の入院設備が整っているこの病院へやってきたのだった。
 加えて彼には深刻な問題がもうひとつあった。皮膚のコラーゲン線維が正常に作られない遺伝性疾患を患っていたのだ。そのため,わずかな衝撃で彼の皮膚は傷つき,常に生傷が絶えない姿でバスケットボールを抱えて病棟を歩き回っていた。
 彼は皮膚疾患のため,我々が「コンビネゾン」と呼ぶスイムスーツのような特殊繊維でできた医療用の衣服を着させられていた。もっとも,彼はこのコンビネゾンをひどく嫌っており,看護師が無理に着せてもすぐに大声を上げながら脱ぎ捨ててしまうのだった。
 今日の彼も,一糸まとわぬ姿で満足げな笑みを浮かべながら私の腕を握っていた。裸でいるときの彼の表情は恍惚ですらあった。
 私の手を引きながら彼は,不思議な動きをして見せる。掌は水をかくように返し,四肢をくねらせながら体幹を私にはおよそ真似できない角度にひねって走り出した。全身にまとわりついた何かを剥ぎ取ろうとしているようにも見えた。屎尿と朝食のオレンジジュースと消毒エタノールのにおいが渾然一体となった閉鎖病棟の空気のなかで,彼は自らを包むすべてを拒絶していた。
 彼は裸になってなお,全身の皮膚を覆う空気まで脱ぎ捨てることで無になろうとしているかのようだった。
***
 昼食が終わると,病棟にはどんよりとした重たい空気が流れていた。
 空調がない病棟は直射日光で耐えられない暑さになっており,気休めで回していた扇風機も熱風を送り続けるだけだった。
 多くの患児は暑さに根負けしてベッドで横になっている。日直の看護師は廊下に一定間隔で置かれた椅子に腰掛け,気怠そうな表情で幾度も腕時計に目をやり,宿直との交代の時間を気にしていた。彼だけはおもちゃが散乱した暗いデイルームで,相変わらず裸になって,滞留した空気を蹴散らそうと躍起になっていた。
 その時間は突然訪れた。
 精神運動訓練士のサラが大きい毛布を抱えて現れた。デイルームに彼がいるのに目をやると,蛇口を開けて毛布を濡らし始めた。生成りの毛布がゆっくりと黒く染まって行く。線維の一本一本に水が染み渡り,腕にもたれかかる重さを感じながら,サラは毛布を浸し続けた。
 続いてサラは彼を床に寝かせると,彼の肩に毛布を巻きつけ始めた。即座に彼は身体を起こそうともがいたが,サラは手際よく肢体を抑えて毛布を絡めていく。冷水の染み込んだ毛布が胸に触れたとき,彼は叫んだ。暑く重たい空気が沈んでいた病棟を叫び声が駆け抜けた。叫び続ける彼をなだめながら,サラは彼のつま先まで毛布で覆ってしまうと,ふうと一息ついた。
 彼はそれからしばらく,この濡れた布を剥ぎ取ろうと手足を激しく動かし,叫び続けた。今や彼は,古代エジプトのミイラよろしく頭以外を毛布でぐるぐる巻きにされていた。
 サラは彼の横に膝をつくと,右手を彼の肩に置いてすうっと指先まで走らせた。今度は両手で彼の脇があるあたりに手をやって,目を閉じながら腰の高さまで撫で下ろした。もう一度。サラは彼を包み込んだ布の上から全身を満遍なくマッサージしていた。
 はじめのうちは暴れていた彼は,次第に布のなかでもぞもぞする程度に落ち着き,今や全身を布にくるまれて穏やかな笑みを見せている。彼の表情は,コンビネゾンを脱ぎ捨てて裸でいるときと同じように満ち足りていた。
 全身を撫でられながらうっとりとした目つきになった彼は,あたかもサラと会話するかのように目と口をしきりに動かしていた。サラもそれに呼応するように,毛布のうえから掌の感触を彼に伝えた。それは,間違いなくサラと彼のあいだだけで成立しているプラクティスであった。
 私は一部始終をデイルームの窓ガラス越しに眺めていて,見てはいけないものを目撃してしまったような気まずさを感じつつ,刺さったようにその場から動くことができなかった。
 そのプラクティスは1時間続いた。

II. 解説篇−ボディイメージの障害とパッキング
−−体に触られるということは,自分でもコントロールできない体を他の人が扱うという,自分が自分で無くなる恐怖があります(東田 直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』角川文庫,2016年,p. 44)
 前章では,自閉症患児へ施される「パッキング」という不可思議なケアに材を取って短い物語を綴ってみた。ほぼ自己満足の領域だが,本論へのイントロダクションとしたかったのだ。
 もちろんストーリーはフィクションだが,フランスにおいてパッキングが精神科治療のひとつとして行われていることは事実である。筆者がフランスへ短期留学中に精神科病棟で実際に見たパッキングの様子をもとに執筆した。物語のネタばらしはいささか芸がないが,説明のまったくないまま副題でもある身体論を展開してしまうと,なぜ筆者がフランス精神医療を取り上げたのか読者の皆様に伝わらないと思う。そこで,前章の背景について軽く紹介してから,論説篇につなぐことにしよう。
***
 パッキングとは,物語内で描写した通りのプラクティスである。冷たい水で濡らしたシーツ(乾いたシーツを使うこともあるようだ)で患者の頭以外を包んで身動きが取れないようにし,シーツの上からマッサージを加える治療法である。フランス人医師のピエール・デュリオンが著書“Le packing”で提唱した治療法であり,精神分析学を基盤として開発された背景がある。精神運動訓練士(psychomotricien)と呼ばれるパラメディカルの職種によって行われ,プロトコルでは1回約1時間,これを週に2回行う。
 パッキングはどのような患者に適応とされるのか。この治療法の趣旨は,「ボディイメージの障害」をもった患者にその回復を促すことにある。
 「ボディイメージの障害」とは抽象的で想像しづらいものだ。自らの体重や体型の感じ方の障害と考えられており,これらの自己評価が歪んでおり,客観的に自分自身のボディを認識できない状態である。神経因性食思不振症(いわゆる拒食症)で,実際は非常に痩せているのに「自分が太っている」という誤った認知のもと極度の体重減少を図るのがひとつの例である。
 パッキングはこの「ボディイメージの障害」があり,自傷行為を行う患者を対象とする。ボディの境界としての“皮膚”を認識できず異物と捉えてしまうために自傷行為につながると考え,冷たい水とマッサージによる皮膚刺激を加えることで,患者に自らの皮膚感覚を取り戻させることを図るのだ。
 そこで,適応となる症例はボディイメージの障害に由来する自傷行為を伴う患者,すなわち上述の拒食症のほかに自閉スペクトラム症や統合失調症が該当しうるとされている。
 容易に想像できることだが,パッキングは冷水に患者を曝すことに近しい行為であり,側から見ていて痛々しい。そのため,フランス国内では患者の家族団体などからの批判を浴びてきた。エビデンス(科学的根拠)の有無については諸説あり,一定した見解は得られていない。米国ではパッキングは施行できず,フランス独自の治療法として知られている。
 根強いパッキング中止の要請を受けて,フランスではパッキングのエッセンスを残しつつ,より理解を得やすい代替療法の開発が模索されている。そのひとつとして期待されるのが,物語のなかで彼が身につけていた治療用装具「コンビネゾン」である。これはスイムスーツのように身体に密着し,強いゴムで皮膚を圧迫するため,パッキングと同様の効果が得られるかもしれないというわけだ。現在は特定の身体疾患にのみ適応があるこのコンビネゾンを,自閉スペクトラム症などの精神疾患の治療にも応用できないかと考えられている。

III. 論説篇−ボディイメージの障害と身体論
−−手足がいつもどうなっているのかが,僕にはよく分かりません。
 僕にとっては,手も足もどこから付いているのか,どうやったら自分の思い通りに動くのか,まるで人魚の足のように実感の無いものなのです(東田,前掲書,p. 72)
■身体(からだ)に無関心な医学
 医学部では身体医学と精神医学を別々に学ぶ。どの病院に行っても,「精神科」は「内科」や「外科」とは別れている。それは,あたかもデカルトの心身二元論を支持するかのようである。しかしながら,少しでも臨床の経験を積めばわかることだが,身体疾患はしばしば精神症状をともなうし,精神疾患も身体症状を併発する(たとえばうつ病では消化器症状が頻発することが知られている)。身体と精神は明らかに不可分である。
 なぜこのような奇妙なすみ分けが生じているのか。それは,医学が疾病を解剖学的機序によって分類しようとするからである。いずれかの器官に原因を帰することができる疾患は身体疾患となり,(おそらく脳におけるなんらかの障害が主座であると推測されるが)特定の臓器に異常を見出せない疾患は精神疾患とされている。
 そこには解剖学や生理学による自然科学的視点はあっても,哲学などによる人文科学的視点がまったくもって欠けている。わたしたち医療者は,人体の専門家を名乗りながら,人類が “身体(からだ)”にまつわるいかなる思索を巡らせてきたのかという文化にあまりに無関心である。
 身体論の切り口で疾患を考え直すことは,医学書に書いてない新しい見地をきっと与えてくれる。そこで,パッキングが対象とする「ボディイメージの障害」について,身体論から考察を加えてみよう。
 余談だがパッキング,実はこれから幾度も引用する哲学者・鷲田 清一の『悲鳴をあげる身体』のなかでも取り上げられている。筆者は物語篇を書き上げたあとに,パッキングの記載があることにまったく気付かないまま同書を開いて「あっ」と声をあげて驚いたものである。
***
■意識しない身体
 筆者が留学中に陪席したパッキングでは,患者が全身の皮膚から伝わる冷水の痛みとマッサージする掌の感触を受けながら,実に気持ちよさそうに臥しているのが印象的であった。それと同時に,ふだん自らの皮膚に与えられる感覚に意外と無関心で過ごしていることに気付かされた。同じことを鷲田は次のように述べている。
 身体はそれが正常に機能している場合には,それとしてはほとんど意識されていない。(中略)わたしたちにとって身体は,ふつうは素通りされる透明なものであって,その存在はほとんど厚みがない。が,その同じ身体が,たとえばわたしが疲れきっているとき,あるいは病の床に臥しているときには,にわかに,不透明なものとして,あるいは腫れぼったい厚みをもったものとして,日常の経験のなかに浮上してくる。(中略)突然よそよそしい異物として迫ってくるのである。(鷲田 清一『悲鳴をあげる身体』PHP新書,1998年,p. 41)
 五体満足で健康であるうちは,わたしたちは自らの身体を意志のまま操れると思い込んでいる。身体は精神に従属しており,精神による指令で身体が動作すると考えて疑わない。日常生活のなかで潜在的にもっているこの考え方は,実はデカルトの時代からまったく変わっていない。意思をもつ実存としての“わたし”は,あたかも精神そのものであるかのように錯覚しており,身体には意識を向けていない。
 しかしながら,ひとたび風邪をひくだけで身体は思い通りに動かなくなる。精神が身体のなかに閉じ込められたかのように,自由がきかなくなる。身体が精神の支配下にあるなどという幻想は誤りであったことに気付く。病にあるときのほうが身体への意識が向くのだろう。四肢を切断されたのちにないはずの手足に痛みを感じる幻肢痛(ファントムペイン)はわかりやすい例かもしれない。
 自閉スペクトラム症では感覚過敏が症状として知られており,からだに触れられたり,爪を切られたりするとパニック症状を起こすことがある。医療者が異常と決めつけるこの感覚は,研ぎ澄まされた身体への意識によって知覚しているのだとすると,むしろ他の者が“鈍い”のかもしれない。
***
 ところで,“身体”の範囲とはどこからどこまでなのだろう。精神と身体の統合体としての“わたし”を“わたしでないもの”と隔てるのは何なのだろう。外界と物理的に境界された皮膚? とりあえずこれを皮膚境界と呼ぶことにする。鷲田は前掲書で次のように記している。
 身体とは皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ,と。これまただれもが自明のことのように言う。が,これもあやしい。(中略)皮膚がほんとうに<わたし>という存在の表面なのかどうかも,なかなかかんたんには言えない。(中略)服のその表がふつうは<わたし>の表面をなしている。が,身体がもし<わたし>だとすると皮膚こそ<わたし>の表面であって,したがって衣服はわたしの外部にあるはずだ。しかし,他人に服のなかに手を突っ込まれると,まるでじぶんの内部を蹂躙されたような不愉快な気分になる。(中略)服のなか,そこは<わたし>のなか,秘せられてあるべきわたしの内部なのである。人間においてはその表面は皮膚から服の表面へと移行しているわけで,わたしたちの存在はその二つの表面のあいだをそのときどきにたよりなく揺れ動いているといってよい。(同書,pp. 42-43)
 身体の占める空間はさらに,わたしのテリトリーにまで拡張される。(中略)わたしたちの身体は,その皮膚を超えて延びたり縮んだりする。わたしたちの気分が縮こまっているときには,わたしたちの身体的存在はぐっと収縮し,自分の肌ですら外部のように感じられる。身体空間は物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するわけではないのだ。(同書,p. 43)
 鷲田の言うように,わたしたちの“身体(≠皮膚)”は柔軟に広がったり狭まったりしうると考えるべきだろう。たとえば,使い慣れた万年筆で文字を書くとき,紙面のわずかな凹凸や線維の引っかかりがペン先を通して指に伝わる。感情が高ぶっているときは思わず筆圧が強くなり,ペンのしなりが返ってくる。集中力の乱れがペン先を伝わり,とめはねはらいに現れる。こんなとき,筆者のボディイメージはたしかに金ペンの先端にまでかよっている。
***
 さらに,鷲田は皮膚境界における感覚も決して一様なものではないと主張する。
 身体には,濃い淡いがある。唇とか指先とか肛門とか,過敏な神経が密集しているようにおもわれる場所,針を刺してもそれほど痛くない耳たぶやたっぷり肉のついたお尻や足の裏のかさかさした皮膚のように感覚の鈍い場所,顔のように<わたし>が充満していながら私の視界から外されている場所,<わたし>の実質をなしながら一度も見たことのない身体の内部や背面,髪や爪を手入れするときのように身体からどんどん切り離されてゆくもの……。わたしにとって身体は,厚かったり薄かったり,感覚が凝集し力が漲っていたり,感覚が拡散し力が緩んでいたりと,複雑な地勢図を描き出している。
 そんななかで,わたしはいったいどこにいるのだろう。眼で,耳で,あるいは指先で,わたしは世界に,ものすごく鋭く,あるいはものすごく濃やかに接触している。が,わたしはその眼をこすり,その耳を引っぱり,その指を見つめる。そのときわたしはどこにいるのだろう。(中略)ときにわたしはそんな身体そのものであり,ときにわたしはそんな身体の海のなかを漂って,あるいはそんな身体と深く織り合わされて,存在している(同書,p. 16)
彼が述べるように,わたしたちは「じぶんの身体でありながらほんの限られた部分しか見ることができ」ず,それは「危ないほど,無防備なの」である。ボディイメージを微分すると,決してなめらかにつながっているわけではなく,五感の感覚器官が集まりながら視覚的には直接認知できない顔や,五感いずれでも認識が困難な内臓(医学的にも内臓痛は疼痛の部位をはっきり特定することができない)は特異点のように浮いて存在している。これほど多様に混在しているボディイメージを統合することは,実はわたしたちが考えている以上に複雑で難しいことなのかもしれない。
 ボディイメージの障害自体は何も精神障害で特異的に発現するわけではなく,誰もがいつ統合状態が崩れてもおかしくない状態,いわゆる「不安定均衡」の状態にあるのかもしれない。不安定均衡を保っているあいだは身体への意識は薄く無意識下へ沈んでおり,均衡が崩れると鷲田の言う「よそよそしい異物」としての身体が意識の前景に現れる。
■自閉スペクトラム症のボディイメージ
 自閉スペクトラム症患者のボディイメージとは,どのように捉えればよいのだろうか。「社会性の障害」と「興味や活動の限定」によって特徴付けられる自閉症では,感覚が過敏であるとか,視覚と聴覚が乖離しているとかいった医学的な説明がされる。自閉症患者は“些細なこと”で混乱したり不安になったりするため,パニック行動として,頭を壁に打ち付けたり自分の髪を引っ張ったりする自傷行動や,人の手を噛むなどの他害行動が出る……。教科書の自閉スペクトラム症の項にあたれば,きっとこのようなことが書かれている。
 しかし,これは本当に感覚障害によるものなのか。東田 直樹は自閉症である自身の内面を言語化して伝えた著書のなかではっきりと否定している。
 感覚がおかしいと錯覚するのは,苦しさのために自分がそう思い込んでいるせいだと思います。そこに神経が集中すると,体のエネルギーが一点に集まって,感覚に違和感を覚えるのではないでしょうか。(東田,前掲書,p. 74)
 神経学的に解き明かそうとするよりも,身体論からアプローチするほうが理解しやすいように思える。身体は極度に縮こまり,よそよそしくなった皮膚境界を通じて伝わる感覚へ意識が向くことで,感覚過敏のように他者には映る。そして「身体の濃淡」の調和が乱れた結果,他者にとっては“淡い”身体,感覚が拡散して力が緩んでいるような身体が自閉症者には極めて濃く感じられ,鋭く感覚が伝わる。それがパニック行動につながっている。他者が精神の統制下にあると錯覚している身体が「まったく支配できない異物」として自らに覆いかぶさってくることへの恐怖心。だが,これはボディイメージの不安定均衡を考えれば,むしろ自然な反応ですらあるのだ。
 そして「自閉」とは,閉じたボディイメージと読み替えることができることにわたしたちは気付かされる。
***
 身体の移行を司る要因は詳らかでないが,そのひとつに記憶があるのは確かなようだ。前出の東田は次のように記している。
 きっと心の痛みが,体に現れているのだと僕は思うのです。(中略)髪や爪など痛いはずがないのに切られると大騒ぎする人は,悲しい記憶がその事と結びついているのでしょう。(中略)体が痛いのではないのに,記憶のせいで僕たちは泣き叫ぶのです。(同書,pp. 75-76)
 自閉症者である著者が自身の体験をもとに綴っている貴重な報告である。医学書では「タイムスリップ現象」とか「フラッシュバック」などと記述されている症状であるが,単に機能性の記憶障害と片付けるのではなく,これまで論じてきた身体の不安定均衡とあわせて考えることで,「記憶と感覚に非常に強い関連付けが起こり,不随意的に想起される」のだと一歩踏み込んで解釈することが可能になる。
■パッキングの治療効果
 フランスの精神科病棟で行われているパッキングの治療効果については諸説あるが,臨床現場の感覚としては(パッキングの倫理的な問題点はさておいて)自閉スペクトラム症に対する有効性を認める者が多いようだ。
 それではパッキングがボディイメージの障害にどのように有効であるのか,身体論的に解釈してみよう。前述のとおり,自閉症者は自らの身体を狭めることでボディイメージの均衡が崩れ,極端に濃く,張り詰めた感覚に苦しめられていると考える。すると,パッキングを受ける前の身体は皮膚境界より内側にあり,身体よりもっと広い領域からの感覚刺激への適度な反応ができなくなっている状態である。コントロールできない知覚への強い反応として,自傷行為が起こるのだろう。なぜならば,自傷行為によって自らの意思のとおりに皮膚境界へ刺激を加えることができ,コントロールできない知覚を紛らすことができるからだ。あたかも,切り傷を負ったときに傷口を強く押さえたり口で咥えたりするかのように。
 パッキングは顔以外の全身を濡れた毛布でくるむことで,一様な刺激を与えることができる。鷲田はこう述べている。
 たとえば風呂に入ったり,シャワーを浴びたりするのが気持ちいいのは,湯,あるいは冷水といった温度差のある液体に身体を浸すことによって,皮膚感覚が強烈に活性化されるからだ。ふだん視覚的には近づきえない自分の背中の輪郭が,この背中の皮膚感覚の覚醒によってひじょうにくっきりしてくるわけだ(鷲田,前掲書,p. 49)
 冷水の痛みは側から見ていると辛そうであるが,むしろ視覚的に認識できない皮膚境界の感覚が活性化されることで,縮こまっていたボディイメージが広がって皮膚境界と接する。これにより身体が均衡に近づいて,治療効果を発揮するのかもしれない。
***
 パッキングの代替療法として期待されているコンビネゾンも身体の統合を図るという点で同様に有効であると言えそうだ。
 服にはこのように,たえず身体の表面を刺激することで,身体に触覚的な輪郭を与え,そうすることで身体が醸す不安を鎮めるという効果がある(中略)締めつけたり囲ったりして,<像>としてのとりとめのない身体を触覚的に補強してくれなかったら,服の意味はない(鷲田,前掲書,p. 50)
 鷲田が書いている通り,服には皮膚境界を一様に刺激する機能があり,肌を強く圧迫するコンビネゾンはバラバラになっている自閉症者の身体を補強する一助になるのかもしれない。
 しかし,パッキングを受けて恍惚とした表情を見せた彼は,コンビネゾンのなかに身を挿れることは拒絶し,看護師の努力むなしく脱ぎ捨てていた。このことにはフランスの臨床医も観察しており,コンビネゾンの着用はパッキングほどの治療効果が得難いようだ。
 パッキングとコンビネゾンの相違点とは何か。パッキングには,それ自体にプラクティスとしての役割がある。パッキングとは単に毛布にくるまるだけの“拘束”ではない。施行者である医療者との相互のやりとりがそこにはある。施行者は掌でもって,全身を丁寧にマッサージする。患者は,人の手で触れられているということをはっきりと認識する。パッキングの施行は患者と施行者の2人によるコミュニケーションであり,一種の生々しさすら感じる。全身をゆっくりと優しく触れられることで,ただ単純に身体が皮膚境界と一致するだけでなく,「身体の濃淡」がなめらかに調和を取り戻していくのかもしれない。
***
■わたしの身体を探して
 パッキングが有効であることにある程度納得はできても,依然として筆者は次のような考えも持っている。自閉症者ほど,五感の感度を極限に高め,かすかな信号も逃さずに敏感に感じ取ることに長けている人はいない。自閉症者にしばしば非常に豊かな才能を発揮する者がいるのは,縮こまった身体ゆえかもしれないと思う。するとわたしたちがパッキングを通してボディイメージを統合させようと躍起になっているのは,案外良いこととも言えないのではないか。精神をもって身体を支配しようとしているわたしたちの錯覚に順応させる正当性がどこまであるのか,怪しいのだから。
 自傷行為やパニック行動が激しい場合になんらかの医療的対応が必要であることに異論はない。無理に身体を皮膚境界へ広げるのではなく,コンビネゾンにはなくてパッキングにあったもの,すなわち人と人による親密な接触のコミュニケーションの要素のみを抽出した治療法を開発することができないか,思案してみたりする。
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 立ち返って,わたしの身体はどこにいるのだろう? パリのメトロのベルで目が覚めたとき。灼熱のなか汗で張り付いた服に触れながら,あの骨と皮だけの犬を眺めていたとき。わたしの身体はぎゅっと押し込められてコンパクトに閉じている。
 あるいは,この論集の締め切りに追われていたある朝,なぜか外気がふだんより清々しく感じられたとき。回診中に病棟の開いた窓から金木犀の匂いがふとしてきて,中庭の情景が一瞬眼前に浮かんだとき。秋の空気に肌が溶け込んでいくような錯覚に陥ったわたしの身体は,どこまでも広がっている。
 わたしの身体は一時として同じところに留まることはなく,常に揺らいでいるのだ。
 思い切って,身体を支配することをやめよう。ボディイメージが統合されずにたゆたうままに任せておけば良い。人類の力をもってして自然を制圧しようと試みる自然科学の企みは,とうに失敗している。医学においてもこの戒めを忘れるべきではない。無関心を続けてきた“身体(からだ)”にスポットライトを当てることで,従来の医療は変わることのできる可能性をいくらでも秘めている。ベッドサイドに出て,患者の身体を探してみよう。【了】

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